Blog213. ナラティブ講座に寄せて

10.08

これは、12月10日に大阪で行うことになっている「ナラティブ講座」のチラシに書き込む原稿です。実際には、半分程度に整理されチラシになりますが、ナラティブを語るとき、やはり自分の現実を押し出さないと、言葉に詰まってしまいます。言葉の力、言霊とは、そういうものです。以下、チラシになる前の原稿です。

ナラティブ(語り)は、これからの社会の中で臨床美術の役割、あるいは臨床美術士の役割を考える上で、重要な支柱になる視点であると、私は考えています。

ナラティブ(語り)は言葉の連なりです。言葉を連ねることによって、私たちは自己を満たして生きることができます。また、言葉によって他者とつながることも出来ます。そして、私たちは言葉によって、あるいは語りによって、「自己の現実(生きる)」を他者に関わられながら、つくり続けている存在だと言えます。

語りの理論で、このことを如実に表す例として、「がん患者はがんの告知を受けたその瞬間から、がん患者を生きる」ということが言われます。がん患者の病を伴う自己語りは、自分の「生きる」に深く根ざして離れることはありません。しかし、その現実を乗り越えていく力もまた言葉の力であり、自己語りによるのです。私は、講義でナラティブ・アプローチを扱うとき、この例を引き合いに出してきました。まさか、それが自分の身に起こる現実であるとは思ってもいませんでした。私は、この2年まさに、がん患者を生きています。

臨床美術士マインドとして存在論的人間観を私たちは学びました。「いてくれてありがとう」という語りを私たちが共有していることは、極めて重要なことです。この言葉があることが、人々の存在の仕方の現実を問う力になるからです。そして、私たちは語りによってそこに開いた世界に対して、臨床美術士として語り、そして、アートの力による非言語的な語り(表現)の力も用いて、「いてくれてありがとう」を現実にするために、ともに生きられる場をつく出し更新していかなければならないと思うのです。

アートプログラムのなかでも、語りの力が発揮されます。『雪化粧する樹木』というプログラムがあります。雪が一粒舞い降りる。その白い一粒の点を描いては、目の前で掌に雪をのせる思いで、今、この瞬間を描き続けます。セッションの場はしんしんとして微かな音も雪にのまれて積もるのです。この情景は、語りの深みにうごめく想像の世界です。語りの表層は言語ですが、深層は身体です。それらが丸ごと働いて、出来ごとは紡がれていくのです。

ナラティブ講座の話題は、どこにでも飛べるので、何をお話しすることになるか心配であり、楽しみでもあります。ナラティブの視点の持つ魅力について、少しでもお伝えできればと思っています。

大阪でお会いしましょう。

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